院長プロフィール

院長:藤田 和広(藤田 和広)

院長 藤田和広
院長 藤田和広

経歴:

昭和48年生まれ。 神奈川県横須賀市出身。
2000年四月日本カイロプラクティックカレッジに入学。
2001年クリーブランドカイロプラクティックカレッジへ解剖実習のために短期渡米。
2002年日本カイロプラクティックカレッジ卒業。認定カイロプラクター。
日本カイロプラクティックセンター銀座で須藤DCの元で約一年間終日インターン。
その後、地元横須賀市の整骨院と神田西口整骨院で勤務。主にカイロプラクティックを中心に施術を行う。
2010年1月6日より横浜天王町カイロプラクティックでカイロプラクティックの施術に当たる。応用身体運動学研究所所員。
2016年5月14日 横浜天王町カイロプラクティックを退職。
同年5月15日より「ふじたカイロプラクティック」を開院。

自己紹介

趣味:
読書:
月10冊程。最近はピータードラッカーと南方熊楠に関する著書を多く読む。愛読書はピータードラッカー「プロフェッショナルの条件」
映画鑑賞:
好きな映画はデヴィットリンチの監督作品全般。
格闘技:
ボクシング、空手 最近はやるほうは引退、観る専門になりました。
漫画:
ゴルゴ13、ベルセルク、龍(RON)、蒼天航路を愛読。
音楽:ドアーズ、ビートルズ、ビリーホリデー、ナットキングコールをこよなく愛する。

理念:

  1. 施術に費やす時間よりもむしろ、患者さんの状態を知ることに多く の時間を割きます。
  2. 問診などで得られた多くの情報を元に検査を行いどのような状態か?少しでもよくする為に何が必要か?を判断して施術を行います。
  3. 決まりきった通り一遍等 の施術や憶測や見切り発車によるいい加減な施術はしません。
  4. 原因がわかり根拠のある治療を常に心がけております。
  5. 治療戦略を明確にして意味も無く何度も通わせることはいたしません。

院長のカイロプラクティックヒストリー。

私がカイロプラクターを目指し現在に至るまでの紆余曲折を書きました。かなり長いのですし、腰痛や肩こりに役立つ情報でもないので、興味のない人はさっさと飛ばしてください。

車窓から見えた看板を見て興味を持ち、そのまま入学。2000年春

カイロプラクターになる前は6年間エンジニアとして働いていました。最初の一年は地元横須賀で造船の設計に従事し、2年目からは、東京へ出向となり、消火設備の設計に従事してました。

それが東京に移ってから4年目になる1999年の12月、いつも乗っている総武線車窓から見える胡散臭い看板を見たのをきっかけに会社を辞め、全く畑違いの「カイロプラクティク」という職種に転職することになりました。

いつも通勤で利用する総武線の下り電車。信濃町を過ぎると、その車窓からデカデカと「自然治癒力」「日本カイロプラクティックカレッジ」と書かれた看板が見えていました。その時はなぜか気になり、会社が休みの日に信濃町に降り立ち、そのビルを訪れました。それが全ての始まりでした。

なんとなく説明を受け、その後、学校説明会にも参加し、他の学校を見学もせず、その業界がどういうものかも調べもせず、またこれと言った目的もないにもかかわらず、たんに「面白そうだから」という理由だけで多額の授業料を払いその胡散臭い学校に入学しました。
なんとも宿命めいたものを感じる学校でした。

学生生活。2000年4月から2002年4月

学校の勉強はとにかく大変でした。責任ある仕事と学業の両立など土台無理でした。結局、どちらを取るかを迫られたとき、会社を辞めました。

サラリーマンからバイトのエンジニアとしてパートタイムで働くことになりました。そのお陰で徹夜や納期からは解放されましたが、私の頭の悪さを補えるほどの効果は無く、年中赤点のオンパレード。

赤点を取るたびに追試で2000円取られ、最後通告の再追試(ファイナル)では10000円取られて、勉強だけでもてんてこ舞いなのに、経済的に焦げ付く日々でした。

そのお陰というべきか、試験を受かる為の勉強しかしてなかった人よりも基礎知識が徹底的に叩き込まれ、卒業後は講師の依頼を受けるほどにまでなりました。
そして2年間なんとか留年もせずにまた破産もせずに、仕事をやりながら勉強の日々をなんとか逃げ切り卒業できました。

インターン時代 2002年4月から11月

学校を卒業できたのはよかったのですが、学校で習ったテクニックと知識を臨床の現場で役立てるためには、規定のインターン時間(450時間)では不十分ですし、バイトのように暇を見てやっていては、とても物になりません。そこで4月からの半年間、学長が院長を務める日本カイロプラクティックセンター銀座で終日インターンをすることに決めました。

インターンとは単にタダ働き。東京で暮らしながらやるには無理があるため、東京のアパートを引き払い実家の横須賀に戻り、横須賀から毎日銀座まで電車で片道2時間近くかけ、満員電車ですし詰めになりながら通いました。

朝6時の電車に乗り、通勤ラッシュの電車に揺られ、掃除や院長のサポートやら、やること盛りだくさん。帰りはいつも22時か23時。さらに毎日のように様々なレポートや課題が要求され、課題も治療に関することだけでなく、その場の思いつきやマイブームが課題になることが多々あり、臨床現場の合間にいつも調べものをしてレポートにまとめる毎日でした。様々な無茶振りに対応したお陰で、なけなしの知識と情報をもとに自分の頭で考えて結論を出すための訓練になりました。

インターン生活も半年を過ぎた頃、貯金も底をつきかけていたので、開業する資金もない私は、安直に実家のラーメン屋の座敷で開業することにした。
インターン時代の詳しい内容はこちら→インターンの日々

ラーメン屋での開業2003年1月ー2006年3月

ラーメン屋の座敷にベッドを1台置いて、タオルを数枚用意するだけの超低予算で開業でした。とにかく最初は市場価格の半分近い値段で始め、主にラーメン屋の客をターゲットに始めた。単価が安いからいい調子に患者が増えて、こりゃ楽だと思った矢先、体力作りのために始めたジョギングの最中、駐車場のチェーンに足を取られて転倒し、後手についた左手を骨折しました。正確には左橈骨頭の複雑骨折です。

吐き気を伴う痛みに耐えながら、体制を立て直して左腕を見ると肘が変な方向に曲がり、完全に力なく垂れ下がっていました。
痛みをごまかすため頬の裏の肉をかみながら、垂れ下がった左腕を右腕で掴んで、思いっきりひねって関節に押し込み、折れた腕を整復しました。痛みのあまり頬の肉を食いちぎり、その後に激しい吐き気に襲われ、かなりの血と2時間前に食べた夕飯を吐きました。腕は元状態に整復されたものの、相変わらず動かすこともできずただ力なく肘から垂れ下がったままでした。

そのまま家に帰り、病院へ搬送され、結局2週間の入院と、ボルトで固定する手術をやることになりました。医者からは「この手の骨折は、あまり予後は良くないから、手術をして成功しても肘の曲げ伸ばしができる程度にはなるだけで、体重をかけたり力仕事はおそらく無理」と言われました。つまり廃業勧告です。

絶望的な状況でした、絶望していられるほどこちらも余裕がない。とにかく手術代を稼がなきゃならないから使える右手一本で施術して、なんとか手術費用を稼いぎました。自分がどう施術をしていたのか未だに思い出せません。それぐらい、切羽詰まってやっていたと思います。

手術後は1ヶ月休みリハビリに専念したが、病院のリハビリではとても改善するめどが立たないので、自分なりにカイロプラクティックの知識と技術を駆使してリハビリを行った。そしたら1ヶ月後にはなんとか施術に耐えられるレベルにまで回復した。

それでも、3年はリハビリ期間と考え、安い単価で施術をしていた。その間はとにかく来る患者さんを施術し、わからないことをひたすら調べる勉強の日々だった。

そして3年経った時、気がついたらすっかり燃え尽き、施術に対するやる気を失っていました。またラーメン屋も移転することになり施術するスペースがなくなったことも受けて、治療院を完全にやめてしまった。それでも辛いというよりはむしろ青々としてました。2006年の1月のことでした。

治療に飽きてフリーターとニートの日々。2006年3月ー2007年3月

3月過ぎにそろそろ働かなくてはならない時期になっても治療院業界で働く気はなく、たまたま目に付いた家電量販店でバイトをしていました。また、働きながら放送大学へ通うようになり、「陽明学と朱子学」や「現象学」などを受講していました。

家電量販店の仕事は最初のうちは新鮮で面白かったのですが、所詮ただの腰掛け、1ヶ月も経たないうちに興味は薄れ飽きてきました。それでも周りの人がしょっちゅう辞めたりバックれたりするため、なかなか辞められず、半年間そこで働くことになりました。

幸い、スタッフの多くは就職先の激務で心身を病んだプログラマーやウェブデザイナーが多かったため、HTMLの基礎的なことを教えてもらい、それがその後のホームページ製作に役立ちました。それでも詰まらないものは詰まらないので、もう二度と治療以外の仕事に就くのはやめようと決めました。

11月にバイトを辞めてそれからしばらく自宅で治療をしたり、放送大学の講義やテストを受けたりとブラブラしていました。放送大学も上記の講義の他、数学の講座を聞いたらすっかり興味もなくなったので行かなくなりました。
そして、そろそろちゃんと働こうと思い、ネットで調べていたら近所の整骨院がたまたま人を募集していたので、そこへ入社しました。

社会復帰 整骨院で勤務2007年4月ー2010年9月

整骨院の院長は、カイロプラクターから柔整師になられた方でカイロプラクティックへの造詣も深く、待遇も結構良くしてもらいました。また、地域の患者さんからも良くしてもらいとても居心地が良い職場でしたが、まだ自分の治療法が確立できていなかったことへの焦りからか、このまま埋もれるような気がして悶々としていました。

そこへちょうど同じセミナーを受講していた蔀先生から自身が経営する整骨院のスタッフを募集していたことから誘いを受け、どうせ同じ整骨院なら少しで自分のキャリアアップの足しになる方へ行った方がいいと思い、1年勤め上げた地元の整骨院を辞めて、神田の整骨院で働くことになりました。
この蔀先生こそ元学校の講師で、私が赤点を取るたびに追試や再追試(ファイナル)で最も上納金を収めたラスボス的存在でした。

「横浜天王町カイロプラクティック」時代。2010年1月ー2016年5月

2010年から神田の整骨院へ週一回だけ通いながら残りは蔀先生が院長を務める「横浜天王町カイロプラクティック」で勤務するようになりました。

ここでは施術からホームページ関連の業務を執り行っていました。ここでの役6年間は、今まで学んできた知識がやっと臨床と結びつくようになり、自分の治療法を確立する上でとても役立ちました。また、地域の患者さんからも大変よくして頂きました。

「ふじたカイロプラクティイク」開業。2016年5月15日〜現在。

2016年5月15日に横浜天王町カイロプラクティックを退職し、保土ヶ谷区月見台で「ふじたカイロプラクティイク」を満を持して開業しました。地域の「寝たきりゼロ」を目指して皆様の健康に貢献していきたいと思います。

私の目標は、私が死んだ時に葬儀の弔辞で「治療した患者さんの殆どが、医者や薬に頼らず天寿を全うした。」と言われる治療家を目指す事です。

[`evernote` not found]