読書:科学という考え方。

「知識」よりも大切な「考え方」

科学関連の本というと、偉大な発見とその業績や法則を紹介する「科学知識」に関するものは多いが、「科学という考え方」のように法則を発見する過程である「考え方」を特別に扱った本はほとんどない。

科学という考え方 - アインシュタインの宇宙 (中公新書)

思い出せば私が子供のとき理科が大好きな科学少年で、年中博物館に入り浸っていた。

発見された知識にも興味があったが、次第に発見に至る過程の方に興味が移って行った。

そのまま成長したら偉大な科学者になれたかもしれないが、残念ながら学校という屠殺場で子供の好奇心は見事に潰された。

問うことと考えることを押さえつける学校

小学3年の時、授業か何かで地球が太陽の周りをどうやって回っているのかを先生が説明してくれたのだが、自分は、それをどうやって見つけたのかを知りたくて先生に質問したら、「今は、地球が太陽の周りをどう回っているのかを教えているの!、黙って説明を聞きなさい!」と逆ギレされた。

当時自分は、発見された知識を知れば賢くなれるだろうが、発見に至る過程を知れば「考え方の法則」が分かり、自分もニュートンやコペルニクスやケプラーやアインシュタインのような偉大な発見ができるかも知れないし、そこまで至らなくても、何かしら新しい知識を生み出せるようになると考えていたから質問したのだ。

「科学という考え方」の著者は子供の好奇心について言語学者のノームチョムスキーの言葉を本書で引用している。

科学の出発点には常に「不思議さ」がある。そして人間には、「なぜ?」という問いかけを通して、不思議について考えようとする好奇心や探究心が幼少期に自然と芽生える。そうした能力を生涯にわたって育んでいくことが、人間の本性を高めることにつながる

だが、学校の教師は今ならググれば分かることを教えるために、問いを発することと、考えることを禁じ、私は罰として席を教卓の脇に据え付けられた。

その後、この教師はとんでもない報復を受け、生徒とその父兄を完全に敵に回し、転任をさせられる羽目になる。

そして、高校までの学校生活はチョムスキーの言う「人間の本性」を高めるのではなく、友達と遊ぶ目的以外に通う価値がない長い暇つぶしになる。そして科学とは程遠い大人になった。

そして再び科学的な考え方に注目するようになるのはラーメン屋の座敷で潜りの施術を行うようになってからだった。

整体にとって科学的思考法とは?

現在、私はカイロプラクターとして世間一般では「整体師」とも言われている職業に従事している。「手に職をつける」とは、思考よりも自分の感覚と経験だけが頼りになる職業。

患者さんの症状の原因を探すのも施術をするのも触診という「直感」が頼りで、技術の習熟は臨床という「経験」が頼りである。

そして本書では科学の目標や目的を以下のように説明している。

サイエンスの目標は、自然現象の奥底にある原理や法則を明らかにすることだ。

科学は人間の経験や直感に基づく知識を反映してはいるが、そうしたまだ吟味がよくなされていない「経験則」をまとめれば法則になるわけではない。むしろ、人間の経験や直感を補い、正していくことが科学の進歩だと言える。

一方、我々の施術の成否を決めるのは指先から感じたものと、経験から導き出されたものになるるため、科学的思考が介入する余地がほとんどない。

だから似たような症状がたまたま続き、確率的に改善率が上がると、それを勝手に「法則」と決めつけていい気になり、臆面もなく神の手を気取る。

しくじった場合は無視して「無かったこと」するか、ガッカリしてセミナーに申し込み、考えることなく新たな方法論にしがみつく。

つまり我々のような職業にとって科学的思考とは、自分の施術を正当化するために自分にとって都合がいい理屈を並べる事である。そこには推論も分析もない。

そうなると結局、治療法が増える一方で、現象の解明には何も貢献しない。そのくせ何か言われれば「治ったんだからいいじゃないですか?」と開き直る。まぁ、そうなんだけど・・・。

こうして当の本人は「慢心極まる」か「慢心」と「ため息」の間を行ったり来たりするか、意気消沈して業界からドロップアプトするかのどれかになる。どれも共通して言えることは誰も何も考えず、何も学ばないことだ。

考えない上に学ばないとなれば、人種は技術偏重の「実践家」か、小難しい能書きを並べるだけで実務能力がない「理論家」の二つにスッパリ分かれる。感覚だけに頼るのは再現性が運任せになるし、知識だけだと役に立たない。

それじゃあお前はどうなんだ!というと、最も厄介な「慢心極まる実践家」だった。

感覚に頼り、自分の器用さに寄りかかっていたが、それが全く通用しない事態に陥った時に初めて自分の態度と考え方を改めた。と言うよりはそうせざを得なかった。

では、そんな私を変え事態とは?感動的な出来事でもなく、偉大なメンターによる助言でも、神の啓示でもない。慢心極まったバカは言葉では変わらないのだ。

愚者は経験から学ぶ。

自分を変えざる得ない状態とは、商売道具である左腕を骨折したことだった。

そのおかげで変わらざるえなかった。つまりケツに火がついてケツがすっかり炭になってようやく改めた。

骨折した時に神経が傷つき、肝心の直感の材料である「触診」が全く機能しなくなった。また腕の骨が折れたことで矯正のポジションどりが難しくなったことで矯正が思い通りにできなくなった。1番当てにしていた感覚と技術の両方が一変に使い物にならなくなった。

「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」とはよく言ったもの。バカは経験から学ぶしかない。それも大概ロクでもない経験から学んでいく。

主観が当てにならないとしたら客観的事実を積み重ねて患者さんの症状を推論するしかない。施術の効果は診立てにかかっているからだ。

患者さんの状態や患者さんから得た情報を元に推論し、それを元に仮説を立て、検証し、施術という形で実証していくしかない。つまり触診という極めて主観的な情報ではなく、客観的な情報から最適解を導き出す方法論が必要なった。

その方法論こそ「科学的思考法」だつた。

私が骨を折った当時、科学的思考法を学びたいと思っても、字面を追うだけで目ヤニがでる小難しいものしかなかった。

唯一、私のような科学の素養もないバカでも何とか読めるのが、近代科学の基礎を築いたルネ・デカルトの「方法序説」だった。

方法序説 (ワイド版岩波文庫)

まずこの本から読み始め、その後、科学や実験哲学の本を読んで、日々の臨床現場の中で自分なりにアレンジしていった。

同時に考え方ばかり学んでも法則や理論の基礎のとなるべき知識がないと話にならないから、医学知識を吸収していった。

それで、なんだかんだ3年がかりで、なんとか「ガッツと度胸と運」しかなかった施術からやっと脱却できた。

あの当時の私は、知識も技術もとてつもなく貧弱で「にゃー」と「昇竜拳」しかネタがない「猫ひろし」と同じ状態だった。おまけに左腕は折れて指の感覚は無いし、思い通りに矯正できないポンコツときた。

そんな貧弱な理論とお粗末な技術で施術をしていた。よくあれで金が取れた。今思い出しても汗顔の至りだ。

あの時にこの本があれば、「科学という考え方」を自分なりに解釈するのに3年もかからずに済んだろう。

科学という考え方とは?

ケプラー、ニュートン、ガリレオからアインシュタインと言った物理学の天才たちは、時代も境遇も運・不運も才能も性格も皆バラバラだが、法則を導く「仮説・検討・着想・検証」という思考のプロセスは同じである。

そんな彼らから幸運や才能を除いて残った思考の骨格が「科学という考え方」だ。

この本では科学という考え方を以下のように説明している。

仮説検証型の科学研究で基本となるのが「仮説・検討・着想・検証」の流れ。まず未知の問題にたいする仮説が起点となり、それを承けて問題の検討が行われる。転じて新たな着想がそれまであった困難を解消してくれることが分かる。最後にそれを検討して実を結ぶのだ。

この考え方を習得することで、凡人でも天才たちと同じ道具を使うことができる。当然、同じ道具を使ったからと言って彼らと同じレベルの偉大な発見につながるわけではない。

そして考えて施術をしたところで必ずしも良い結果に結びつくとは限らない。何も考えなくても結果は同じかもしれない。

しかし施術の最終目標とは「患者さんが自分の体に対して責任を持つように指導する」ことである。

それを実現するには、単に感覚に頼って施術をするだけではダメだ。

相手を指導するには理にかなった「説明」をしなくてはならないし、患者さんに対して何が原因で、なぜそこを施術したのかを論理的に言葉で説明できないといけない。

説明は思考の過程を言語化することであり、考えることは説明の前提条件になる。だから何も考えずに感に頼ると人は自分が感じたことしか言語化できないから説明責任を果たせず、「感想」しか言えない。

この本でも科学の目的を以下のように記している。

自然の不思議な現象を「説明」するために、身を擲つて努力し続けることに尽きる。

施術にとって症状を改善させることは説明するための前提条件である。施術をしくじったら説明どころか言い訳になる。

施術にとって科学的に考えるということは説明するための手段である。それがどんな考えであれ、考えたことを言語化できなければ説明にならない。

そして説明することは施術の最終目標を実現するための手段である。説明したところで相手が聞く気が無かったり、こちらの考えが理解されなければ全て無駄骨に終わる。

しかしたとえ無駄になるとしても考え抜いて施術をし、説明することが私の仕事である。

そんなわけで、科学的思考法は物理や数学だけに通用するのではなく、また文系理系関係なく、自分の頭で考えて行動する人にとって必須のスキルと言えるので、皆様も「科学という考え方」を一読することをお勧めします。

科学という考え方 - アインシュタインの宇宙 (中公新書)

横浜市保土ヶ谷区の整体:「ふじたカイロプラクティック」

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<地 図>

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<ウェブサイト>

ふじたカイロプラクティック

☎︎045-442-8759

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