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白ずくめの老娼メリーさん。
60年代から90年の中頃まで、「メリー」さんと呼ばれていた老娼婦がヨコハマにいた。
メリーさんは、皺くちゃの顔を花魁のように白く塗り、フリルのついた白いドレスを着て、公爵夫人気取りで夜の街に立つ、70過ぎの現役娼婦だった。
終戦50年を迎えた1995年の12月頃、メリーさんは忽然と横浜から姿を消した。
今回は謎多き老娼婦のメリーさんを追ったドキュメンタリー本「ヨコハマメリー」を紹介します。
この本は2017年に出版され、著者は2006年に公開された同タイトルの映画「ヨコハマメリー」を監督した「中村高寛」氏。
そもそも私がメリーさんに興味を持つようになったキッカケは、16歳の頃にメリーさんと遭遇した時の体験だった。
一応、誤解がないように断言しときますが、買ったのではない。見かけただけです!
メリーさんと遭遇した時に感じた「放つ凄み」。
私がメリーさんに遭遇したのは平成元年のちょうど今頃、当時16歳の私は、高島屋の本屋に行くため上りのエスカレーターに乗っていた。
上から降りてくる下りのエスカレーターの方をボンヤリ見ていると、全身白づくめの薄汚れたマネキンが乗っていた。最初それはマネキンだと思っていたが、よく見ると人だった。
私の後ろで娘さんと一緒に立っていたご婦人が「あれ、メリーさんね」と言っていた。
上りと下りのエスカレーターが交差する瞬間、私ははっきりその姿を目にし、思わず息を飲んだ。
そこには噂通り、背中と腰がすっかり曲がり、皺くちゃの顔を白く塗った婆さんが、フリルのついた白いドレスを着て立っていた。その風体にもかなり驚いたが、それとは別に小柄の婆さんが発する「凄み」に圧倒された。
中空をじっと見つめ、微動だにしないメリーさんは、まるで宮本武蔵の肖像画のようだった。
一点を見ているようで全体を見、無為のように見えて常住座臥の臨戦態勢。
それは60代後半の婆さんとは思えない、周りを圧倒するような凄まじい「凄み」だった。
あんな凄みのある人と会ったのは後にも先にもこれっきりだった。
私にはメリーさんがただの奇抜な格好をした老娼婦には思えなかった。それ以来、メリーさんの正体を知りたくて興味を持つ様になった。
ヨコハマメリーの略歴
メリーさんの生年月日は不明、岡山県で農家の長女として生まれた。
結婚したが離縁し、実家を出てから進駐軍相手に体を売る私娼、俗に言う「パンパン」になった。
本の中では父親を亡くしてからこの稼業に入ったと、衣装を預けていたクリーニング屋の女将に話していた。
朝鮮戦争の頃は横須賀を稼ぎ場にしていたが、横須賀で稼げなくなると横浜に移った。
メリーさんが横浜に来たのはベトナム戦争中の1962年ごろと言われている。その時、メリーさん御年40歳前後。
横浜で商売をする頃には、すでに顔を白く塗り、髪を金髪に染め、白のドレスという公爵夫人のスタイルが確立されていた。
お高く止まった衣装に比例してプライドも高いメリーさんは、上級将校しか相手にしなかったという。
高度経済成長期を経て開発が進むと、街の様相は戦後復興のドサクサから生まれた「ヨコハマ」から近代的な地方都市の「横浜」へと変わっていった。
1978年になると伊勢佐木町に「伊勢佐木モール」ができ、白塗りの娼婦は次第に街の厄介者になっていった。
80年代になるとメリーさんが商売の拠点としていた伊勢佐木町の大衆居酒屋「根岸屋」が潰れた。ここはヤクザや米兵、私娼にヤク中などのアウトローが屯する戦後の「ヨコハマ」を象徴する店だった。メリーさんはこの店の前で立っていたが、店が潰れて商売の拠点を失うと、文字通り通りに立って客を取るようになる。
月日が流れ、時代は昭和から平成に変わっても、メリーさんは皺くちゃの顔を白く塗り、薄汚れた白いドレスを着て、腰の曲がった姿で生活物資が入った紙袋を抱えながら横浜に留まり、現役で娼婦を続けていた。60を過ぎたメリーさんに客がいたのかどうかは分からないが、伊勢佐木町のGMビルでエレベーターガールの様なことをやりながら小銭を稼いでいたという。
私が高島屋のエスカレーターでメリーさんと遭遇した頃だ。
終戦50年の節目となる1995年、メリーさんは横浜を離れ郷里に帰る。
この頃のメリーさんは、耳は遠くなってほとんど聞こえず、目も白内障でほとんど見えず、歯は総入れ歯で住む家もなかったという。
郷里に着くと、実家との折り合いが悪かったせいか、岡山県内の老人ホームに入居し、そこで余生を過ごす。
1997年に中村高寛監督の映画「ヨコハマメリー」の撮影が始まる。
2005年の1月17日に心不全でメリーさん死去。享年83または84歳。
その翌年の2006年、メリーさんを追ったドキュメンタリー映画「ヨコハマメリー」が公開される。
そして昨年の2017年に中村高寛著の本書「ヨコハマメリー」が出版。
映画「ヨコハマメリー」
2006年の秋頃、本を物色する目的で横浜の有隣堂にたまたま寄ったら、「ヨコハマメリー」の公開を知らせるポスターが貼られていた。
ポスターにはポツンと佇むメリーさんが写っていて、その姿を見たとき、高島屋で遭遇したときと同じ「凄み」みを感じた。
私はすぐ観たかったので、ネットが繋がるパソコンが置いてある家電量販店に行って上映している映画館を探した。
そしたら「下高井戸シネマ」しかなく、横浜からわざわざ下高井戸まで観に行った。
私が知りたいのはメリーさんの「凄み」の正体だったから、正直映画の出来はそれほど期待していなかった。
どうせメリーさんの噂や証言の寄せ集めで作った「あの人は今」的な安っぽいドキュメンタリーだろうと思っていた。
しかし映画はしっかり作り込まれていた。何よりも驚いたのはメリーさんが生きていて、現在の様子(映画公開時には死去していた)がカメラに収められていたことだ。
映画はほとんどメリーさん不在で進行する。
人々はメリーさんの思い出を語りながら、メリーさんという媒体を通して、それぞれの思い出や人生などの物語を語りだす。
メリーさんを通して語られた物語が集まって、次第にメリーさんと共に生きた時代の「ヨコハマ」の歴史が描かれていく。
映画の中でメリーさんは人々の物語を紡ぎ、それぞれの物語と時代と横浜を繋げる象徴として機能していたが、あくまでも映画はメリーさんの不在が前提で撮られている。
それがひょんなことからメリーさんが生きていることが分かり、舞台は横浜から故郷の岡山に移り、主役も象徴としてのメリーさんから、岡山の老人ホームで静かに暮らす「西岡雪子」さんに変る。
メリーさんの友人のシャンソン歌手「永登元次郎」さんが老人ホームを訪ねるシーンでわずか数分だが現在のメリーさんの「西岡雪子」さんがカメラの前に姿をあらわす。
永登元次郎さんは末期ガンにも関わらずヨコハマから岡山の老人ホームを慰問に訪れ、自身の人生を歌った「マイウェイ」をメリーさんの前で歌う。
「マイウェイ」を聴きながらメリーさんは何度も小さく頷きながら微笑み、拍手を送る。
その姿からは、宮本武蔵の肖像画のような「凄み」は微塵なく、虚飾が全て抜け落ちた妙好人「浅原才一」のような笑みを浮かべていた。
ホームレスの老娼婦としての過酷な環境から、気楽極楽の老人ホーム生活へと環境が変わったことで、あの時見せた女の業とも言える「凄み」が消えるとは思えない。
74まであの姿で通りに立ち続けたメリーさんの思い「心境」が変わらない限り、「凄み」が弱まることはあっても跡形もなく消え失せることはありえない。
あの「凄み」の原動力となる「心境」とは何か?今度はそれが気になった。
映画では遠く本国に帰った愛する米兵将校と再会した時に、すぐ自分だと分かるように、出会った当時と同じ格好をしていつまでも待っているのだと、清水節子さんが語っていた。
話としては良くできているが、メリーさんの口から語られた内容ではないし、私がメリーさんから感じた「凄み」は恋慕など生チョロいものではなく、生き死をかけたような鋭さがあった。
結局、映画からは凄みの正体とその原動力となる心境までは掴めなかった。
しかし映画としては素晴らしい作品だった。特にメリーさんの笑顔と、映画のラストで横浜最後のお座敷芸者「五木田京子」さんが「野毛山節」を歌うシーンは圧巻だった。
書籍「ヨコハマメリー」
映画が公開されてから12年目の今年、たまたま近所の本屋で本書を見つけ、再びメリーさんのことを思い出して手に取った。
本書は映画で載せ切れなかった様々な資料、インタビューの裏話、後日談などが書かれていた。
メリーさん自身の声なり手紙や日記があれば「凄み」に結びつくヒントが得られると思い読んでみた。
しかしメリーさんは自分のことについては、ほとんど語らない。300ページ以上ある本で、メリーさん自身が語った内容はほんの数ページほど。
その中にメリーさんが実家に出した手紙の下書きらしきものが抜粋されていた。
いつのものかは分からないその手紙には、時節の仰々しい挨拶に続いて家族に当てこう書いてあった。
「私は皆様のお目にかかるまでは、立派になっていなければなりません。何かに見出されて良き人になります。その時をご期待くださいませ。」
その一文からは、老娼婦でありながら何かに見出されて良き人に、立派な人間になろうとするメリーさんの「凄み」が滲み出ていた。
卑しい生業であろうとも恥じることなく凛としたメリーさんの姿は、紛れもなく遊郭の最高級娼婦の「太夫」と重なる。
太夫とはただの娼婦ではなく、美貌と見識と教養を身につけた知識人でもある。源氏物語などの古典文学や歌道、香道、華道に精通し、公家の「教養」と「雅」を身につた遊女のことで、その「太夫」が命をかけて守るべきプライドこそ「張り」である。
29年前に高島屋のエスカレーターですれ違った時に見たメリーさんは60を過ぎた「太夫」の「花魁道中」であり、周囲に放つ「凄み」は、全てが崩れ去ってのちに唯一残った「太夫」の「張り」であった。
しかし現実のメリーさんはホームレスの老娼婦でしかなく、そこまで落ちぶれてもなお立派な人となって故郷に錦を飾ろうと「張り」だけを武器に過酷な現実と対峙していた。その姿は「凄み」を帯びて壮絶であったが、同時に哀れで痛々しくもあった。
そして映画の最後にメリーさんが見せた穏やかな笑顔は、何かになろうとせず、ありのままの「西岡雪子」さんの笑顔だった。
その笑顔は全てを受け入れ、また全てを手放した者だけがたどり着ける境地のように見えた。
最初の遭遇以来、私はヨコハマメリーの「凄み」に圧倒され、映画を観て以来、西岡雪子さんの「笑み」に魅了されていた。
メリーさんは30年近くも私のことを散々振り回し、死してなおも心を掴んで離さない、とんだ悪女だ。
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