長いお別れ/ロング・グッバイ

14の時の私はこの小説にハマり、主人公のマーロウの仕草やニヒル言い回をマネ、マーロウ気取りで憎まれ口叩いていていた。その成れの果てが今の自分だ。

レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッバイ」は私が14の頃から時々手に取っては読み返している小説だ。何きっかけで読み始めたのか忘れたが、幾度の引っ越し、多くの書籍の整理を経ても未だに本棚には常に清水俊二さん訳の「長いお別れ」と村上春樹訳の「ロング・グッバイ」がある。

最近は暇にかこつけて清水俊二訳の「長いお別れ」と、村上春樹訳の「ロング・グッバイ」の二冊を久々に読み返していた。

清水さんの方は簡素な言葉で的確に表現された翻訳で、村上さんの方は台詞回しが現代風のパンチが効いたていて、さらに清水さんが翻訳する際に端折った部分も訳されているので台詞や描写のインパクトが強い。 清水さんの簡素で的確な翻訳に慣れている私としては、村上さんの翻訳はパンチは強いが、やや冗長に感じた。だがどちらの翻訳も素晴らしく、甲乙はつけ難い。

「ロング・グッバイ」の粗筋は次のように進む。主人公の私立探偵フィリップ・マーロウは酔い潰れて乗り付けたロールスロイスからから路上にずり落ちそうになっているテリー・レノックスとナイトクラブで遭遇する。彼はまだ若いのに髪は総白髪で顔には手術跡のような傷がいく筋もついていた。夫の醜態に愛想を尽かしたテリーの女房シルビアは彼をその場に置き去りにして立ち去る。見かねたマーロウが彼を助け起こすと、泥のように酔い潰れながらもマーロウに礼を言った。礼節を失わない白髪の男に何か気になるものを感じたマーロウは彼を放っておけず、自分の車に乗せて連れ帰り、自宅で介抱し、翌朝彼をアパートまで送り届けてやった。

後日、マーロウはダウンタウンの通りを尾羽打ち枯らした姿で歩くテリーレノックスと再会する。彼は女房に捨てられ、文無しで真昼間から酔っ払って通りを彷徨いているところを巡回中の警官に止められ、しょっ引かれそうになっていた。マーロウは彼らの間に割って入り、テリーを引き取り、彼に飯を食わせ、自宅に連れ帰り、仕舞いには仕事のあてがあるラスベガスまでの旅費まで出してやり、彼を送り出す。

その後、女房のシルビアがテリーを追っかけ、ベガスで合流。彼らはそこで復縁し、2度目のハネムーンを同地で過ごした。シルビアは億万長者のハーランポッター氏の末娘で、身持ちが悪いことで社交界で名を馳せたていた。彼はシルビアの不貞行為に対して口を出さないことと引き換えに、愛とは無縁の結婚生活と贅沢三昧の「お座敷プードル」のような生活を手に入れた。金持ちの女房と復縁して金まわりが良くなり、高級外車を乗り回すようになっても彼はマーロウへの感謝と礼儀と友情を忘れず、しばしばマーロウの元を訪れ、酒を酌み交わすようになる。

ある日、いつものバーでテリーはいつになく塞ぎ込み、お座敷プードルのような今の生活を毒吐いていた。彼の話に嫌気がさしたマーロウは得意のきつい皮肉を言い放って席を立ち、後悔の念を抱きつつもテリーを残して店を後にした。それ以来二人は疎遠になった。だが、ある日の深夜、唐突にテリーがマーロウの住居に押しかけた。

久々に再開したテリーの顔は総白で手には拳銃が握られていた。テリーは部屋に入るなり、「ティファナまで送って欲しい」と頼み込んだ。マーロウはひとまず彼を落ち着かせ、詳しい経緯は一切聞かずに彼を車に乗せ、メキシコの飛行場がある街まで送り届けた。

マーロウが戻ると、家の前で二人の刑事が待ち構えていた。刑事から「テリー・レノックスがシルビアの顔を叩き潰して殺害し、現場から逃走した」と聞かされる。彼は知らぬ存ぜずを決め込むが、従犯容疑で逮捕され連行される。警察署内で怒号と暴力と漏れのない供述書で、どんな事件も解決するタイプの冷酷で悪辣な刑事に散々痛めつけられるが、彼はダンマリを決め込んで拘留される。程なくしてテリーが犯行を告白する手紙を残して自殺するという形で事件は決着し、マーロウは釈放される。テリーの無実を信じているマーロウは都合のいい幕引きに異を称えるが、警官やヤクザ者から事件を蒸し返すなと釘を刺される。

そんな時に、テリーの近所に住む作家のロジャーウェイドの妻アイリーン・ウェイドから奇妙な依頼を受け、図らずもマーロウは再び事件に首を突っ込むことになる。そして事件は意外な展開を迎える。

ここまでの粗筋で物語の前半部分の終盤あたりだ。これ以上詳しく書くとネタバレになるから、後は手に取って読んでほしい。

14歳の時から一貫してタフでシニカルな主役のマーロウに憧れ、手本としていたが、40のケツで読み返した今は、今まで「飲んだくれのクズ」という認識しかなかった脇役のテリーレノックスに私は何故か惹かれ、彼に共感する。

テリー・レノックスは彼の義理の父であるハーランポッターが「礼儀正しいのが取り柄の一文無し」。と評している通り、礼儀正しいだけの胡散臭いろくでなしだ。彼の中で唯一まともな事は、第二次大戦でイギリス軍に従軍中、蛸壺に落ちてきたドイツ軍の手榴弾を素早く拾い、蛸壺から飛び出して投げ返して、二人の仲間を救った事だけだ。だがその手榴弾は投げ返す途中で爆発して彼は顔に酷い傷を負い、そのまま彼だけドイツ軍の捕虜となった。捕虜収容所では髪の毛が総白になるような酷い扱いを受け、神経をやられ、復員後の彼はすっかり別人になって、酒浸りの日々を送っていた。そこを彼に命を救われた戦友に拾われ、彼らが経営するカジノでお飾りの支配人として働いていた。そこでシルビアと出会い、彼女の5人目の花婿になった。結局その花嫁の顔を血まみれのスポンジのように叩き潰して殺害。逃亡先のメキシコのホテルで犯罪を告白した手紙を記し、自殺した。

一体マーロウは、テリーの何に惹かれて彼の無実を信じ、彼を庇って逮捕され、牢屋にぶち込まれ、ヤクザや警官にドヤされながらも、事件の真相を暴き立てたのか?おそらく無一文の宿なしにまで落ちぶれても頑なにも守り通した彼の「プライド」だと思う。本作の中でテリーは「プライド」について次のように語っている。

「聞いてくれ。僕のプライドは、みんなが言うプライドとは違ったものだ。僕のプライドは、それ以外に何も持ち合わせない人間のプライドなんだ。いや、こんなことはどうでもいい。つまらないことを言ってしまった」

側から見ればガラクタほどの価値もない「プライド」を彼は金科玉条のように守って生きていた。彼はマーロウなら分かってくれるという期待を込めて語ったが、同意を求めようとしている自分を恥じ「つまらないことを言った」とすぐさま否定した。それは彼自身のためのプライドであり、他人から理解や同情を求めるようなものではないからだ。

テリーと同じようにマーロウにも大切にしているものがある。彼は古い付き合いの郡警察の警官バーニーに向かって、こう語っている。

 「私はロマンチックなんだよ、バーニー。夜中に誰かが泣く声が聞こえると、いったい何だろうと思って足を運んでみる。そんなことをしたって一文にもならない。常識を備えた人間なら、窓を閉めてテレビの音量を上げる。あるいはアクセルを踏み込んで、さっさとどこか遠くに行ってしまう。人のトラブルに関わり合わないように努める。関わりなんか持ったら、つまらないとばっちりを食らうだけだからね。

二人は誰にも評価されず、一文にもならず、トラブルを背負い込み、とばっちりを食い痛い目に合うだけと分かっていながらも「プライド」と「ロマンチック」に従う。彼らの眼差しは現代社会の欺瞞を見抜き、彼らの言葉は皮肉混じりに欺瞞を暴き立て、彼らの生き様は失った「何か」を思い出させる。テリーは誰かを守るために罪被り、マーロウはテリーの無実を信じ、彼に「さよなら」を言うためだけに事件を解決する。そんな彼らの生き様が多くの読者を惹きつけ、魅了する。

「ロング・グッバイ」が他のマーロウシリーズとは一線を画し、文学作品として評価される最大の要因はテリーレノックスの存在が大きい。本作は殺人事件を中心に物語が進むミステリーであると同時に、拗らせたプライドと割の合わないロマンチックを抱えた面倒臭い男たちの友情の物語でもある。その友情はトラブルによって育まれ、テリーの死によって失う。マーロウは亡き友のために事件を解決し、マーロウは一人、埃っぽいオフィスから立ち去ろうとする亡き友の足音に耳を傾けながら、失われた友情に「さよなら」を言う。 ラストシーンを読み返す度に、いつも私は無性にコーヒーが飲みたくなる。

深く強く、火傷しそうなほど熱くて苦く、情けを知らず、心のねじくれたコーヒーを。それはくたびれた男の血液となる。

そんな茶店のマスターが長居する客を追い出す目的で淹れられた、とびきり熱くて不味い、まるで悪意を煮詰めたコールターのようなコーヒーが飲みたくなる。

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